この挨拶は好きではないのですが、お久しぶりでございます。
吹っ切れて帰省中はブログの方はお休みしておりました。
地元の緩い時間の流れに良くも悪くも染まり、明日から始まるバイト然り時間に追われる日々に憂鬱としています。
健康的に定時に三度の美味しい母の料理が食べられなくなるのもつらいですね。
とは言え、今年は毎回帰省すると必ず集合していた親友二人と就活や研究室の多忙さで予定が合わず、ほとんど部屋で寝て過ごす引きこもり状態だったので(することがなく)、そろそろ現実に戻らないと戻れなくなってしまいます。
田舎中の田舎にある祖母の家に泊まったり、毎晩減量の意味合いで街中を1時間散歩したり、春祭りに祖父と二人で行き帰りに焼き鳥屋に行ったり、海沿いの街に家族で出かけたり、新たな思い出ができました。
正直思ったのは、あれだけ離れたくて仕方がなかった家族や地元に、悪くないのかもな、という感情を抱いたこと。
就職を見据え、親戚などからは地元に帰ってくることを勧められたりするのですよね。
居住地と、たまに帰る地と、訪れる地は区別しないといけませんが。
たまに帰るからちょうど良いのであり、ずっといるとしんどくなりそうな気はしますね。
話は変わりますが、夜に街を散歩していて思ったのが下宿先の自分という無意識下のキャラクターのフィルターを通して街を見る自分がいたこと。
わかりやすくいうと当たり前なのですが、外の街を知り、価値観が変容した目で街を新たに捉えなおしたと言いますか、アップデート、比較をする自分に出会ったのです。
そのままである街の不思議な感覚。
2年前の成人式後に開かれた小学校の同窓会は当時、二浪目のセンター直前だったので行っていませんが、同じ時を経た同級生からも街よろしく何か不思議な感覚を覚えたりできるのかなと思ったり。
逆に周りが私を見たときに何を思うのか、不安でしかないですけどね。
変わらないとは言いつつも少しずつ少しずつ変わっている場とくらべ、私は何か成長できたのだろうかと。
人生においてこれまで続いてきた私は子供という立場で祖父母、両親の愛を受け守られ、祖父と自転車でどこかに出かけ、母の運転する車の後部座席で外を眺めながら向かう買い物先、帰れば用意された美味しい料理、うっとおしい反面感情のある祖母の激励、口数少なにルーティンのごとく仕事をこなす父、着実にわかりやすく変化しゆく弟達。
これらが永遠には続かない儚さに泣きそうになったり、自分がそれらのように役割を担い誰かの人生観の一部になりうるその日を考え奮い立ったり、色々と思うことがあった帰省でございました。
また更新は続けていく予定ですので、よろしくお願いします。
帰りに寄った京都駅屋上でひと休憩。