最近よく思います。
例えば、Yohji Yamamotoの服をパッと見ただけで何がどう凄いのか、なんてことは分からなかったはず。
服のブランドの歴史を多少調べたり、実際にお店で試着した時のシルエットがよく見えたことで何か違うとようやく感じることができたわけで。
(18-19AW(秋冬)の中で一番惹かれた服です。赤色は苦手ですがそれでも欲しいと思っているほど。カッコいい…)
その他のブランドにおいても、そういった積み重ねにより見る目が養われてきた感覚はあります。
しかし、それがまだなく、世では賞賛されているが理解には至っていない物も多いのは事実。
特にアート、芸術の域は全然分からない。
ただ、知識を輸入することで鑑賞する上での視点を養えばYohji Yamamotoへの理解が進んだ、深まったような体験ができるものだろうことは確信しています。
一方、最近?少し前?に話題になっていた、当時は中3で今は高1のシンガーソングライターの崎山蒼志(さん、君)の、YouTubeのオススメ欄にあったことで知った五月雨なんて曲は、初聴の時点で「あー凄い」と天才の片鱗を感じたわけです。
音楽について専門知識を学んだこともなければ、バンドを組んでいたこともない私、漠然として曖昧で言語化できてないですけど、パッと「天才」なるイメージを抱いたその感覚が存在するのも事実。
さて、この両者への感覚の抱き方の(速度?の)違いとはなんなのでしょうかね?
人にもよるので一概には言えないでしょうけど、後者の崎山君なんかは私に限らず多くの人が同じような感覚を抱いたからこそあれだけ反響がありましたよね。
「あの年齢であの歌詞と歌い方、発声であることへの良い意味での違和感」を指しているのかというと、それもあるでしょうが、年齢に関係なくあのスタイルの歌手は私は知らなかったし、完全に独自のものを確立している意味では、分かりやすかったのかなぁと。
サッカーの久保建英(さん、君)なんかは「凄い」とは言われるものの、W杯の代表メンバーに入り一人で劇的に試合を変えられるだけの力があると認められている、というわけではなく、あの年齢にしてバルセロナ仕込みの云々ではあるけれど、現段階で全年齢代表(A代表)に選出はまだ早いという力であって。
サッカーやスポーツは本人の意思とは無関係に身体の成長時間も重要な要素であることは考慮しなければならないのですけれどね。
となると、人の能力というより当該分野なのかな。
でも、音楽は小6からスピッツが好きだと思う感性はあったけど、音楽について学んだことはなかったし、それでも一流のものに触れていたことにはなるのかな…。
でも、一流とされる芸術なんかは日常的には触れてないけど、教科書やTVでモナリザとかピカソだとかは知っていたはずで…。
うーん…。
もっと当該事例を挙げないとアレですかね。
と言われると思いつかない人間なのでまた考えておきます。
書いてて今思ったのですが、自分が主体的に体験したことがあるか否かは関係しているかもしれませんね。
絵は描いたことがあってもアートとして描いたことはないし、服は着ても作ったことがない(毎日着用しても曲と違って安物を買う人は非一流品ですし)。
歌は作詞作曲したことがなくても圧倒的視聴回数と歌うという経験はありますし。
謎は深まるばかり。
ひとまず経験値の差としておきましょう。