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真正道

私ですね、これまでに何度か触れてますけど、高校まではいわゆる一般平均を前後するレールの上を進んできたんですけど、2浪して、留年までしてるじゃないですか。

 

2浪までも、医学部進学を前提としていた時点では許容範囲内だったわけです。

 

むしろ、医者という既存のレールは一般的には良い意味でレールの上端(+の意)の扱いですから、積極的に肯定される歩みのはずでした。

 

が、よく分からない大学のよく分からない学部で、留年し、それをまた繰り返そうと、もしくは中退が目前に迫っている今。

 

初対面で「年齢は?」からの「仕事は?」そして「学生!?何年生?」→事情説明で変な空気の流れ。

 

事情を知る身内が近くにいる場合では「親のすねかじりで甘ちゃんなんですわ。」と説明されちゃうまである。

 

まぁでも、実は当の本人としては道から外れたおかげで見えた別ルートを感じてるんですね。

 

料理してると楽しいから料理人とか面白そう、アイロン掛けるの意外と嫌いじゃないしクリーニング屋で働いてみたい、服の奥深さを知ったしもっと勉強したい、最近ハマってるダーツでプロいけるのかな、誘われてるし仲間はみんな良い人ばかりだし飲食店に就職もありかな、とか。

 

「仕事と趣味は別」、「嫌なことから逃げるのは忍耐力が足りてない」、「身体で上位になれない(スポーツ)残り大半の人間は勉強頑張って生きていくしかない」、「医者は地位も安定もお金もある素晴らしい職」。

 

極め付けは「大層なことは望んでいないから世の中の平均くらいには生きてください」という言葉。

 

そんな言葉で、ある意味での洗脳を受けて育っていた頃には考えもつかなかった、いや、考えてもそっちに方向転換する人生の選択肢は与えられていなかったと考えると、なんかなあ。

 

そういう真正道(「まっしょうどう」と命名)の通過点だか最終地点には結婚、一軒家、子育てみたいなルートを人生の最大の幸福としたものが共通認識として植えられてるので、そこから逆算すると確かに一理あって筋は通ってるんですけど。

 

中でも、それなりにうちの家族は仲良かったし、父の亭主関白ぶりに辟易とする場面は多かったながら、絵に描いたようなど真面目ぶりで補填されていたし、あの生活を享受できる根源であることから許容というか正当化というかはされていたし、家族というのはこういうものだと思うしか他では学べるわけでもなかったし、最大幸福ルートの結婚に対する「家族観」は正の方向で形成されていましたね、自分の中に。

 

その辺に対する気持ちは多少の変化はありましたけど、幸福と解釈する精神は全然ありますし、そう考えると安定とか必要かなぁとか思いますし。

 

でも、いよいよ世の中で実は虚構だった、謎に掲げられた「安定」という概念がAIやらロボットやらに覆される時代が訪れて、人類、人間における幸福の定義も変わるわけで。

 

まぁまぁ、本質を考えれば、原始は生命維持の為の生死をかけた狩猟は必要条件だったわけで、安定なんてないわけですから。

 

そうあえば、なんで、安定=不安がない、世の中を作ろうとこれまでされてこなかったんですかね?(してたんかな?分からんけど)

 

不安定な事もないと生を実感できないってこともよくあるし、そういうことなんかな。

 

ギャンブルとかスマブラの対戦とか、勝ちも負けもない不安定ではない状態では満足できずに手を出しちゃう、でもそれが人間であり「生」であるって感じしますね。

 

さて、何が言いたかったのかに戻しますと、その真正道による精神支配の影響って凄まじくて、出る杭は打たれるとか嫉妬とかってそれによるものなんじゃないかなと。

 

決して肯定はしてませんし(むしろ否定)、自分はしませんけど、犯罪をするってある意味凄いなだと思うんですよ。

 

精神支配の真正道から自らの意思で逸脱するんですよ?

 

その方向が負の方向なので良くないですけど、自分にはまたもある意味で選べないなと。

 

やってはいけないですけど、犯罪においてやらない、と表裏一体でやれないも含まれてると思うんですね。

 

他の例だと、最近考えを改めたのは遅刻に始まり引きこもりとか不登校の子。

 

小学生、ギリ中学生の頃までは真正道を歩んでたので、小学生の頃からいた遅刻する子(それも寝坊とかを理由に)とか信じられなかったですもん。

 

当の私は親に起こされたりはしながらも遅刻0でしたから、何がどうなると遅刻なんてできるのと思ってました(親も親とか)。

 

中学入ってら理由は知りませんけど不登校になって軽くざわついてた子とかも当時は「普通にしてるのが一番楽なのに、なんで不登校なんて選択肢を選べるんだ?この先どうすんの?」と思ってました。

 

同じサッカー部に所属してた不良の同級生(あんまりこういう言葉、擁護は好きじゃないですが、そいつは悪い奴ではなかったです)も途中から学校にほとんど来なくなって、たまに来ても格好が染髪してたりピアスしてたり、制服着崩してたり、タバコ吸ってたり。

 

そういう行為の良し悪しはさて置き、中学に通うという真正道から外れるなんて本当に理解ができなかった。

 

元不良の方が評価が高くなる現象とかは確かに本質的におかしいし、それまで真正道を歩んできた真面目な人たちが最も素晴らしい評価をされるべきで資格もあるっていうのは正論ですけど、その道じゃあ不安定なこの世の真理が掴めない、知り得ないという意味では間違ってるんだよな、と最近思いました。

 

でも、その「真面目」っていう評価だって言葉ヅラでは聞こえがいいですけど、フタ開けたら「他人に迷惑をかけていない」というタダそれだけだったりしますからね。

 

真正道を自らの意思で辿り歩んでいるつもりが、実はそれ、真正道から外れてはいない、というだけではないですか?と。

 

まじめ系クズはめちゃくちゃいますよ。

 

最たる例が私ですから。

 

社会的に価値があることと個人的に価値があるというのは別です、評価が。

 

今ではそのまじめ系クズ以下の不真面目かつクズなんですけどね。

 

真正道から外れたものの真正道を生きる人以下の行動しか起こせてないですから。

 

私の話はどうでもよくて。

 

本質的に、(陰謀論的なものは好みじゃないですがそういう見方もあるらしいので、)(「都合よく」)仮定された人類の幸福の逆算であるところの「真正道」を辿る生き方を、今一度、考え直す機会を設けてはどうでしょうか?

 

あれ、問題提起したかったんやっけ?忘れた。

 

まぁまぁ、そこから外れた者という視座から見えたこの世の一つの見え方をここに置いておきますね。

 

てか最近忘れてたんですけど、またTwitterのリンク貼っておくのでよろしければ

http://twitter.com/arihure_jinsei

 

 

 

 

 

 

 

 

f:id:arihuretajinsei:20190112220129j:image

あとは行動あるのみ。

 

と言うのは簡単。