こんにちはSOです。
家の掃除をガッツリとしていたら、下宿先に持ち込んでいた思い出のカードファイルを発見し、眺めていたら思うことがあったので書こうかなと。
カードの種類はデュエルマスターズなんですけど、それに関しては語りたいことがあるので前置きが長くなります。
本題とは違うのですが、始めたのは小学3〜4年だったかな。
幼き頃の人生の師である従兄弟に貰ったことをきっかけに始めました。
まぁ、勉強以外の遊びに関しては否定的な親からすれば良い気持ちではなかったと思います。
結果としては高1〜2まで続けていた気がします。
中学入るとプレイ人口が激減したのでやめたり再開したりの連続でしたが。
人生の師である従兄弟(以降、Nちゃん(男)と呼ぶ)との関係性が薄れてきたのもデュエマ離れと同時なので、それほど私の人生との密接具合は相当なものでした。
小中の頃は無邪気な上に共通の趣味があればどんだけでも遊べたし、話せたものですが、落ち着きが出てきて共通の趣味であるカードはしなくなり、どハマりするほどのゲームもなくなれば自然とすることがなくなっていったというか…。
毎回、会う場所であった祖母の家に行くたびに、顔を合わせなくても虚しい気分は最近なりがちですね。
いや仲悪くはないし、あったら喋るし、ボードゲームみたいなことはしてるしね。
ただ、カードやってた当時の早く合って話し合いたい、戦いたいみたいな、純粋で強い親しみが薄れていったことがね。
さて戻して、小学生の頃は、今では振り返れば我ながら驚きですが、ネットを閲覧する方法もよくわからず、手段がなかったと言っても過言ではない時代、デッキレシピの検索なんて発想もなかったし、本当にカードゲームという名の情報戦でしたね。
スマブラはやり込みでどうにかなるものの、デュエマはあらゆる種類のデータを頭に入れていて、イメージ力とか、強い人の発想とか、そういうのを知っているかどうかで左右されるものなので。
上の年代であるNちゃんからの情報で我ながら無双しておりました。
1番の記憶は超竜バジュラと無双竜騎ボルバルザークとロマノフⅠ世かな。
その辺は強さを正確に認識できている同級生がいなかったので、交換であっさり手に入れて強くなれていました。
調子に乗っていた結果か、いつも通り10人ほどで遊んでいた日に全詰め込みのボルバルザークデッキが紛失した時は泣きましたが。
携帯もないし、他に何もない小学生当時の私の1番の宝でしたからね。
さて、ある程度語り尽くしたので、ようやく本題にシフトしていくのですが、中学生になった途端、カードゲームってその当時は情報戦であったと同時にマネーゲームにもなっていったんですよね。
小学生の頃までは、私の通っていた地域の学校の治安の良さもあって、純粋さによりお金での取引は一切ありませんでした。
なんか、悪いことだと思っただろうしね。
でもお小遣いも増えて、パック単位で買ったところで当たりの出る確率が知れてる中では、カード単品を買った方が狙い通りで安上がりだしエコなんですよね。
その流れは止められない。
さすがにカード屋で買うには資金が足りないのでなかなか手を出す子はいませんでしたが、中にはいました。
まぁ、現実には小学生の頃から親が寛容かどうかでカードを買ってもらう回数や量に差があったので全然平等なんかではないし(やはり一人っ子はたくさん持ってた)、マナーゲームの要素はありました。
まだたかが知れてる程度でしたが、中学生の小遣いと直接のやり取りがね…。
そんな私はどうだっかというと、交換上手だったので、それでやりくりしてました(笑)。
高校生ともなればネットも普及し、強いデッキレシピは山ほど公開され、情報は平等に得られるようになり、マネーゲーム要素だけが残った。
いかに強いものを再現できるかというゲーム。
それでも今思えば、大学生のようにバイトはできないのでまだ知れてる範疇だったので、私もマネーゲームに乗っかってやってましたけどね。
消耗戦だったとは思います。
勝ちたいってよりは所有欲に変わっていた気もしますが。
多分その系譜から来ていると思うのですが、カードゲームをパタリと辞めてからは趣味がスマホゲームに移行して、パズドラを熱心にやってました。
パズドラは高2〜大1までかな?
浪人期間2年の間もやってました。
さて、系譜から来ているというのはスマホゲーにおいて課金するか否かという価値観。
私は完全否定派でした。
何故なら強さに際限がなくなるから。
パズドラでいうなら、そりゃ始めた時期によって強さが決まってしまう側面はありますが、「どのランクの時にどのくらいのキャラ数と強さか」である程度測れましたし、ほぼ平等な条件下で競ったり見比べたかったんでしょうね。
まぁ、パズドラに対戦要素は当時なかったんですけど。
形として残らないものに対して課金することの是非みたいなものもありましたがそれは置いておくとして。
「金でどうにかなっちゃう」ことに手を出したら何が面白いの?ってね。
無課金で3〜4年やり続けて、飽きたのでデータを欲しいという先輩に譲ってパズドラは終了しました。
飽きたというか、無課金という制限をかけた中で上級者になると環境のインフレもあって、むしろスタミナを消費しきれない現象に陥ったんですよね。
スタミナっていうのは遊ぶために必要なコストなんですけど、遊ぶと消費するので、課金すれば回復できるゲージのこと。
要するに、今度は使い切る「時間」をどれだけアプリに回せますか?ってことが強さや凄さの要因になってきて、マネーゲームに対するタイムゲーム的な。
あ、無論マネーゲームには変わりないですが。
インフレとか上級者の前の段階でも、「何時から何時の間はこのイベントが」ってシステムは存在していたので、その時間はアプリに拘束されていましたから、タイムゲーム要素も元からありはしたんですけどもね。
しばらくして、確か去年のどのくらいの期間かは忘れましたが、少しシャドバにはハマってました。
もちろんマネーゲーム要素は濃いんですけど、一つだけでも強いデッキがあれば済むので無課金でもなんとか。
それと、カードゲームでの対人戦をオンラインでいつでもできるのは新鮮だった。
だけど、環境が整えられて使えないカードが出てきたり、当然ながら新弾が発売されれば状況は一変するので永久に使えるデッキでもなく、そんなこんなでやめました。
っていう変遷を経て、今ヨウジヤマモトですよ。
本題中の本題にようやくたどり着きました(笑)。
うーん、マネーゲームだね(笑)。
他人との相対的な何某ではないし、対戦でもないし、自己満足の世界ではあるんですけど、欲しいもの手に入れるにしてもマネーは必要。
一点集中ならばなんでも手に入るくらいの額の収まりではありますが、現実的とは言えない。
それに加えて、常連客?お金使うお客?への優遇があるので、情報戦でもあり、やはりマネーゲーム要素は色濃いかなと。
資本主義やからや!ってことが言いたいのではなくてね。
「そのものをどれだけ愛しているか」とか、「それに関しての造詣がどれだけ深いか」とか、「思い入れの強さや欲求のつよさ」とかそういうものをぶっ飛ばして、「金があれば手に入る」っていうこと。
(最近とあるYouTuberがヨウジの服を古着屋で買う動画を投稿していて、内容としては可愛いかカッコいいしか形容する言葉を知らないような薄っぺらさのにじみ出ている様を映しながらも、人気でお高いアイテムを購入するというもので、まさに表しているなと。愛だの背景だのがなくても手に入ってしまう、金さえあれば。所有できてしまう一例。)
服はシーズンがあるのでいつでも手に入る恒久的な物ではないし、所有であり「着用」という実用性の面が高いこともあるし、もちろん一概には言えないんだけど、関連する欲って全て金さえあれば満たせちゃうものなのが事実で、それを考えると「空虚に対して金もとい労働もとい時間を投じて喜びを作り出している」ような気になることがたまにあって…。
「全国数点の〜で」とか、「管理が大変なくらいクローゼットが一杯になってきた」とか、「クリーニングだけでもコストが凄い」とかさ、そんなの金でどうにかなっちゃうんだって。
必死こいて色々なものと交換して得たその服なんて。
いやあの、そもそも論的なことが言いたいわけでもないのですよ。
金持ちが曖昧過ぎるので、現実味を与えて年収100万そこらのバイト学生と1000万の社会人を考えただけでも次元が違う。
もちろん、何に収入を充てるかとかはその人次第だからなんとも言えないけど、資金があれば低収入者のちっぽけであり大きな喜びは一瞬で叶う。
さて、長々と前置きしたこととの絡みを持たせると、小中高と時間かけて集めたカードコレクションなんて今集め直そうとすれば数ヶ月で済んでしまう。
部屋に並んでるのを見るのが好きで読むより集めることが一番になっていた漫画だって、すぐに揃えられちゃう。
何が言いたいかって言うと、極論だけど「所有に対する喜びなんて空虚(クソ)」ってこと。多分。知らんけど。
なんていうかな、ヨウジの服が揃ってきて、満足感出てきたし、着回しにも困らなくなってきてルンルンな今の私の気持ちって、金持ちが真似ようとすればメルカリラクマも駆使すればすぐに揃うか上回る程度の気持ちなんだな、って考えると、虚しい。
さて、一概には言えないとか、極論て言った理由としては、所有の反対を体験だとすると、服は所有であり着用という体験でもあるので所有欲だけとも言えないのと、アート的な側面から解釈すると、所有することから得られる情報量なども多いのでダメだとか、無駄ということはないかなと。
ファッションの選択は生活の選択と同義であるとするならば、ファッションにおける所有欲が否定された際に選択する服は最低限のノームコアなどだろうし、その生活って要するにミニマリズム?だろうから、そこから新しい何かが生まれてくることってなさそうだし、文化的でもなさそうだから、私はそれはいいかなって思っての今だしね。
じゃあなんだったんだこの記事はって話なんだけど、カードコレクションを発端にしてのことなので、体験というより所有が最初に来てしまう分野の果てには空虚しかないのかもなと自分の過去を振り返ったって話でした。
それでは。
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http://twitter.com/arihure_jinsei
[追記]
もちろん、カードゲームの否定などはしてないし、コレクションだって何十万、何百万の価値がある物もあるしね。
物質として形あるものは何も残ってないけど、思い出に始まり、戦略を考える思考とか、友人知人や、日々のワクワク感のような恩恵は受けましたし。
読み返したら、自分では分かるけど、他人にとって読みにくい文体だと思いました、すみません。
あとがきで、好きだったカードを載せます♪
始まりの地。
再録ボルホワとイラストが好きなダイダロス。
言わずもがな的な。
始めた当初ですら嫌だったよ。
なんとも言えない好き感。
お世話になりました。
ブルーメルキス同様の好き感。
ドルバロムよりアルファディオス派でした。
この2枚はイラストが一番好きかも。
Takayama Toshiaki先生。
マナ加速。
イラストとド派手すぎないシックな強さ。
キチガイ。
バジュラとかバルボーグとかボルバルザークとかアブゾドルバとか載せたいけど持ってないカードばかりなので、またコツコツ集めようかな〜なんて。
懐かしいなあ、あの頃。