こんにちはSOです。
前回記事を書いていたら、類似して少し考えてた話を思い出したので連続で書こうと思います。
少々砕けた話になりますが、女装男子っているじゃないですか。
そこまではいかないにせよ、身体の一部分を晒して、いかにも女性的だと匂わせておきながら実は男性でした、みたいなドッキリ?とかたまに見かけます。
それって、性別を認識するのはフェロモンだとか目に見えない本能ではなく、これまで生きてきての経験値から割り出された各性別への特徴データに基づいた主に視覚的(他の4感もあるでしょうが)な視認によるものなのだなぁと。
まぁこの場では性別、男とは?女とは?という定義の議論はあくまで一般的なものとして。
で、そうなるとですよ、私もその論者の1人ですが、「人は中身」論の行き着く先は「男女を問わない」になるはずなんですよね(あれ、これも過去に話したことあるような気がしないでもないような…)。
要するに本能的な性欲的な遺伝子的な部分でパートナーたる人物を捉えるのではなく、あくまで理性的、思考的に捉えるなら、ということですよね。
いや、どちらかに偏る必要はなく、適度に良い塩梅で採用すれば良いのですけどね。
なーんて、堅苦しいことをつらつらと並べていると「結局、異性とヤリたいって気持ちや衝動を恥ずべきものとして忌避してるだけじゃねえの?」って言われても仕方ない気がするんですが、それは事実否めないとは思っていて。
まぁ、そりゃあね。
要するに、異性と性欲を満たしたいという多少生々しい欲望を認めたくない、認めさせたくないがために「性別を問わず人は中身だ」という論を主張している、と解釈される余地を否むことはできない、と私は思います。
そんな大層な大げさな話のつもりはなかったんですけど…。
じゃあ、結論は希望的優先順位は「異性かつ中身が伴っていること」で解決じゃないか。
となるのか。
あまりに「中身」が取り沙汰されて、対要素としての「外見(容姿)」を異性的要素として勝手に捉え過ぎていただけなんかな。
なんか何言いたかったのか忘れましたが、異性の子とプライベートで関わることがあると、やっぱり少なからず邪念が混じるし、それが入り込まない男友達とバイト先で一緒に働いたり、買い物いったり、バッティングセンター行ったりキャッチボールしてる方が無邪気に楽しめるなぁ。
いや、プライベートで異性と交流なんてほぼないですけど、大学やバイト先のお客さんの異性との関わりは除いてって意味でですね。
私なんかは特に女兄弟はいなかったですし、従兄弟にも女性は1人しかいなかったですし、良い意味で女性に偏見を抱いている(高い理想やイメージ)こともその感覚を強めてる一因かなとは思いますね。
よく聞く、異性の兄弟がいる人の話で裏側を知れば幻滅するみたいな、私そういう経験してないもんなぁ。
交際経験もほぼ皆無ですし。
やっぱ交際経験豊富な人を身近で見てると、男女の純粋な友情みたいなものに限りなく近い(100%は存在しないと思っているのでこの表現)関係を構築できてる印象受けますしね。
となると、そうでない私は、異性に対しての魅力が性的関係を結べることとしてしか捉えられないはずだから(同性の方が邪念が混じらず無邪気なのだから)、うわーん。
響として、ゲイは生々しさを感じてしまうけど、レズはむしろ微笑ましいと感じる程度には「女」という生き物には性別を超越した独自の強みである「可愛らしさ、可愛げ」を有していると思うのだが、果たしてその「可愛らしさ、可愛げ」は、私にとっては性の対象として、であるのか否か…。
愛でる対象なのか、性としての対象なのか。
まぁ、そういう気持ちは半々程度にそれ以外の部分での魅力を純真に受け止められる人間になれるように精進します。
幸か不幸か。
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