タイトルはBUMP OF CHICKENの「宇宙飛行士への手紙」という曲の歌詞の一部です。
これめちゃくちゃ深いですよね。
家庭教師をしてる時が一番思うんですけど、特に理数系科目って本来は具体的な事象についての解明するために計算を行なっているはずなんですが、そのための基礎基本として計算部分のみ(一次関数、方程式とか)を抽出して教えられても抽象的であるがためにイメージができないと理解が進まないと思うのです。
逆に数学でいうなら確率とか、図形のあたりの分野は具体的な事象や絵として問題が示されているのでイメージ自体はしやすいと思います。
何が言いたいかというと、伝える側は頭の中のイメージごと伝えられた気になりがちで、実は伝わっているのは客観的に見れば言葉だけだよと。
だからなるべく図や絵で描いてイメージを言葉を介さずに伝える努力はしています。
言葉を介さずというか、言葉を添えるというか。
あー、こう語っている今も、むしろ話し言葉より文字としてしか伝わってない可能性もあるわけですよね。
記憶≒映像、動画≧画像>言葉≧文字
みたいな。
記憶って映像もしくは画像だと思います。
「りんご」って言葉を聞いて、無意識に赤くて丸くて硬くてそれなりに大きな物の映像もしくは画像が脳内に思い浮かびません?
でもそれって言葉だけで、りんごを見たことがない人、類似する物体を見たことがない人に伝えても言葉しか伝わらないんですよね。
だからこそ、特にイメージのつかない数学理科のような抽象的学問は言葉だけにならないようにと気をつけています。
そんな風に思ったのは、友人と話す際に、自分は知らない彼(彼女)の向こう側の話を聞くは聞いても、彼がその時を思い出しながら話す際の脳内の映像はこちらに伝わらないので、あぁ正確には理解できていられてないのだろうなぁと思ったことがキッカケです。
でも、だからこそ芸術って素晴らしいなとも同時に思いました。
言葉を使わず、絵で表現する、造形で表現する(彫刻とか粘土とか)、音で表現するとか。
言葉は所詮、人間が生み出した、なんというか効率的な伝達手段?に過ぎないのですよ(多分)。
前に一度思ったことがあるのは、攻殻機動隊観てても思ったんですけど、対象人物の記憶をそのまま覗く(攻殻機動隊では記憶の並列化とか言われてた気が)体験ができれば面白いなと(逆に怖くもありますが)。
そうすれば、毎回毎回、家庭教師で教える生徒が変わっても同じことを教えることから脱却して、記憶を渡せば残ってる該当記憶映像を見せて解決ですよ。
そうすれば人類が繰り返すこれまでの人類の復習としての幼少から大学生あたりまでの教育(学習)内容はすっ飛ばして、その分の20年ほどの時間短縮に繋がりそうですよね(適当)。
一人を指導したら、その際に対象者が初めて受けた気持ちから、内容を会得するまでの過程や気持ちの変動まで共有できるとしたら、圧倒的な繰り返しの無駄が省かれるのかも。
まぁ脳の成長速度との兼ね合いとか、プライバシーの侵害とか、共有する記憶の範囲設定の有無とか色々問題があるのでしょうけれど。
なんてことをたまに考えます。
追記すると、大人になってからの後悔を子にも遭わせないために勉強しておきなさいとか言うわけですが、子には言葉としてしか伝わらないので親の思うようにはなかなかならないものですよね。
でも、その子も年齢を経て、勉強に限らずあの時の大人の言い分を理解する。
そういう言葉として出なく何方を経て得る体験、経験も感情込みで記憶そのまま映像で伝わるならなぁなんて。
ちなみに
「どうやったって無理なんだ 知らない記憶を知ることは
言葉で伝えても 伝わったのは言葉だけ
出来るだけ離れないで いたいと願うのは
出会う前の君に 僕は絶対出会えないから
今もいつか過去になって 取り戻せなくなるから」
と続きます。
収録されているCOSMONAUTというアルバムはオススメです。