SO@過去の自分に伝えられるなら

傷つきたくないから探してる/不定期更新/備忘録&日記

始まりました

まずは、あけましておめでとうございます。

 

31日、1日と自分の中ではいかにも、もしくはこれこそ正月というイメージ通りの過ごし方ができて満足しておりましたが、7日にして既に新年気分は吹き飛び、いつも通りの日常へと引き戻された感覚です。

 

ちなみに、他の方は年末年始はどのように過ごしましたかね?

 

私は幼い頃から、父方の祖母(祖父は離婚しておらず)の家に行き、従兄弟とゲーム、合間にガキ使やら紅白やら挟んで、スーパーのオードブルを夕飯に取り、22:30頃に年越しそばを食べ、気付けば年越しというのが習慣になっており、それこそが年越しの過ごし方として定着しています。

 

明けて翌日は親戚の方から挨拶とお年玉を頂き、雑煮を食べ、いい頃合いで近所の神社で初詣かつおみくじ引きの流れですね。

 

小中学生の頃はその後、近所のスーパーでカードパックやらゲームやらをお年玉で購入するのが何よりの楽しみでしたが、ここ近年はそれだけでなくこの過ごし方自体が、従兄弟の就職やうちの兄弟の受験が重なり自然消滅していたもので寂しかったものです。

 

まぁ、今年も2浪してる弟も高3の弟も受験なので、自分以外の家族はまともに参加していないのですけども。

 

くあぁ。

 

毎日に希望が見えないです。

 

家では僕の現状はさて置き、「集団生活において〜」、「社会というのは〜」なんてことを父がくどくどと語り、いわゆる一般常識を身につけ世間で一般平均な行いは最低限こなし、社会に迷惑をかけないこと、という社会適合者として生きることを要求され。

 

下宿先のバイト場では情熱もって、皆の社会の風潮が労働環境改善に向けて進む中で少数派としてガンガン働き金を稼ぐ方針で世の中のパイを取ると意気込んでいるし。

 

ネットを見れば、フォロワー数が多く、意見に説得力のあるように感じるインフルエンサーとやらが、ネットという文明の利器により労働から解放され、自由に自分のスタイルで仕事を複数組んだり、時間を管理して、これこそが人としての新時代の正しい生き方だと高年収を提示してくるし。

 

そんな価値観に囲まれて、何が良いのか、何が正解なのか分からず、考えるものの一向に行動に移せない自分、そしてそんなことが日常になってしまっている今。

 

マズイよマズイ。

 

現実で繋がってる前者二つ、親との繋がりは大学の後期の単位が取得でき進級できるかにかかっていてタイムリミットがもう少し(進捗状況については別で報告します)、バイト場は大学が終わり次第で本来縁が切れるはずだが、ウチで就職しないかと誘いを受けており、断れるだけの立派な理由など持ち得ていない。

 

何より怖いのは、断る理由として、肉体労働が嫌だというのは自分の中では大きいものの、それと対極のネットで得た働き方の知識を活かそうにもその術も人脈もなく説得力がないこと。

 

ましてやこのご時世にガンガン働いてガンガン食ってガンガン稼ぐなんて思想の職場を掲げてる場に提示したところで、夢物語と否定されるオチしか見えない。

 

本筋は自分のしたいこととして(飲食店を選んだ経営者として)共通しているというのに。

 

まだ2年生なんだし焦らずとも大丈夫、時間はまだある、と言いたい、とても言いたい中でマズイのは単位がかなり絶望的という事実(別で詳しく)。

 

マズイ。

 

救いようがない。救われようもない。

 

そんな絶望的新年の一日でした。

 

また。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

f:id:arihuretajinsei:20190107173628j:image

地元に帰ると必ず行く焼肉での一枚。

大抵同じ店なのにあまり美味しくなかったため店を変えようか。

 

言い訳ker

私、最近は面倒で放置してるんですけど、3ヶ月前くらいまではほとんど欠かさず3〜4年はサプリメントを摂取していたんですよ。

 

補足しておきますと、サプリメントとは補助食品のことであって、薬ではありません。

 

確かに、カプセルタイプとか錠剤の形をしていますが、あくまで栄養素(ビタミン&ミネラル)を普段の食事に補う役割が主です。

 

摂取してた理由は、最初は筋トレの影響だったんですけど、筋トレしてるしてないに関わらず普段の生活からでは足りない栄養素が多いことを知ってからは継続してました。

 

ちなみに、摂取してたのはエビオス錠ネイチャーメイド、と名前忘れましたが海外のやつ、フィッシュオイルです。

 

で、本題はここからなんですけど、その話を周りの人にする機会があると必ず聞かれるのが「本当に効果はあるの?実感はある?」ということ。

 

結論から言うと、少しはあるけど、ほぼ無しです。

 

少なくとも私の場合は、飲む以前まで、それも実家暮らしでちゃんとした食事が毎日提供される環境に身を置いていた頃から冬場は口内炎がめちゃくちゃできる人だったんですけど、飲み始めてからはほぼできなくなりましたね。

 

それも食事環境が崩壊してからの話です。

 

まぁでも、その他の実感はないです。

 

というより、感じられるほど繊細で気を遣った生活を送れていないです。

 

キッチリと管理している人なんかは、疲れが取れるのが早いとか、筋肉痛が軽減されるとか、色々と感じるみたいですよ。

 

でまぁ、口内炎防止というメリットは私にはあったわけですが、その話をすると「別に俺はそんなに口内炎できるわけじゃないしな」って返しもあるんですけども、そこなんです。

 

実感できるかはともかく、例えばそれこそ口内炎ができたとか、風邪を引いたとか、疲れがなかなか取れないとか、よく眠れないとか、そういう不調が起きた時に食事をしっかりと摂取していなかった、偏っていたという言い訳を潰せるのが最大のメリットだと思うのですよ。

 

他人に向けてどうこうではなく、自分自身が自分自身を管理する、知る上で言い訳を作らないっていうことは非常に価値があるのではないかと思うのです。

 

他に同様にして実感はできないものの例で言えば、空気清浄機ですかね。

 

私、プラズマクラスターの中でも最上位だったかそれに近いランクの物を所有しております。

 

f:id:arihuretajinsei:20181227133026j:image

 

使用期間の長い家電、消耗品でもないですし、機能性を最も重要視するべきアイテムと判断して、その他掃除機、扇風機は良いものを買いました(本当は洗濯機とか炊飯器も買い換えたいのですが…)。

 

そのアイテムのランク選択も、高い物を買ってのこれなのだから、他はもっと下だと思えるように言い訳潰しににもなりますね。

 

で、高額だったことも大きな要因ですが、なんか愛着湧いてて可愛いんですよね。

 

大事にしようと思えるので良かったと思えています。

 

話は戻って、私は別に埃アレルギーとか花粉症ではないので、サプリメントのように実感はできてない、それも一切有り難みがないレベル(加湿機能は役に立ってます)なのですが、それでもいずれ来得る何某への言い訳潰しに一役買っているのです。

 

体調不良だって明確な理由は自覚ないものでしょ?

 

それと同じで、サプリメントや空気清浄の効果だって明確ではなくても良いのです。

 

そりゃあ、お金に困ったら優先順位は下がるかもしれませんが。

 

これ書いてて、繋がる別の話を思いついたのですが、一記事にまとめると勿体無いので別で書くことにします。

 

 

置いておく

思考を自分の外側に置いておくと、自分がもう1人存在するのと同じで、時間が実質2倍になってるよなあ。なんて。

 

まぁ2倍以上なんですけど。

 

というのも、本を書けば、書いた内容を1対1で一人一人に伝える手間はなくなり、それをコピーして多数配布すればその数だけ自分の思考が世に広がるという。

 

自分自信で成し遂げたいこと、例えばサッカー選手になりたいとか、スマブラで強くなりたいとかって夢は自分以外が叶えても意味はないけれど、日本がサッカーでW杯優勝を成し遂げてほしいとかいう夢だったらば、自分が叶えずとも他人の環境を整えることでも関与できますよね。

 

貧富の差を改善したいとか、困ってる人を助けたいとか、美味しいものを提供したいとか、個別にできる、けど自分一人でやらないといけないわけではないこと、というのは自分のその思考や感情を他人に共有し多くの擬似的な自分と共に行えて効率的かつ夢の叶い幅も広くなりますよね。

 

だから、過去の自分は後付けでありながらも、人を救いたいと思って医学部目指してた時期がありますけど(臨床医)、ぶっちゃけ医者になったところで一対一でしか対応できないじゃないですか。

 

そりあそれが積み重なって1日に何十人にもなったりはしますけど、たかが知れてます。

 

でも、研究医の方になれば発明で救える人数は膨大。

 

まぁ、個人レベルでの承認欲求?(患者さんから認知されたり、感謝される)は前者が満たされますし、後者は到達までの時間の幅が未知数なんですけども。

 

それはさて置き、このブログ然り、書籍、Twitter、メルマガ、YouTubeとかって、ホントすごいなぁって。

 

特にYouTubeは実際に自分が喋ってるのと同じじゃないですか。

 

視覚的でもあるのでニュアンスも伝わりやすいですし。

 

欠点はリアルタイムで応答できないことくらい?

 

生放送は逆に置いておくものではないので現実とあまり変わりませんが、大仰に人を一地点に集めずとも良いのが魅力ですね。

 

例えば、ヨウジヤマモトってどんなんですか?みたいなことに無限に回答をし続けて消耗することなく、それについて書いた物を置いておけば半永遠に共有されるわけ。

 

よくよく考えれば当たり前じゃね?って話なんだけど、一度分解して詳しく見るというか、俯瞰して冷静に見るというか、同じ迷路でも場当たりでその場で動いてゴールを目指すより神視点(ゲーム視点)で上から見た方が同じ物なのに分かりやすい的な感覚でしょうか?

 

何が言いたいのか、具体的な行動、今している事っていうのは身が一つ故にそれを選んだ結果なのだけれど(私なら大学生でありその他を捨てて選択していると言える)、本当は身体がいくつもあるなら別の事もしたって良いわけじゃないですか。

 

でも現実には不可能なので、自分の行動原理、思考体系、人生哲学みたいな具体を抽象方向に辿って凝縮したエキスを多くの人に配分して共有すれば全く同一とは行かずとも自分が考えてしてることと同じ結果、近い結果が他分野で出得るわけで、むしろ他の人の思考と相まってより良いものが生み出される可能性も全然ある。

 

何言ってるか分かりますかね?

 

実際にやってる人が自分か別人かなだけで、同じ気持ちなら誰がやってようと良いんだから、他人自分化計画的な。

 

逆も然り。

 

究極、死んでも思考が残ってれば、地球上には見えないけれど自分がいるし、また自分自身も死んだ人の何某を体現して生きているのでしょう。

 

終わり。

 

とか、そういうのを久し振りに開いたはてなブログのアクセス数を見て、ああ何もしてなくても自分の思考(脳)に触れてる人がいる〜と思って思った話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やっぱり風呂入ってる時にはスラスラと割と書けるんですよね。

何言ってるか文字面だけで伝えられたとは思ってませんが。

就職とかなんか考えてて、うちの飲食バイト先(個人経営)の拡大の話とか聞いてて、不満は色々とあるけれど他と比べれば面白い人生歩めるような場(仕事内容というより環境的に)だとは思っていて、だけど所詮飲食業の行く末って美味しいもの提供して人気出たとしても他が潰れてうちにその分移っただけで、せいぜいより美味しいものが手に入りやすい環境が世に出たよ程度な気もしてしまうんですよね。

その現場を一つこなすだけの日々より、もっと生産的なことしたいなあとか、結局そういう仕事請け負う人材がいてしか成り立たないじゃんとか(環境は良いと言ったものの、労働環境としては最悪で、平気で1日10〜15時間近く超肉体労働ありますし、少なくとも今は)。

でも、そう言えるだけの力もないし、それを否定するのは世を知らない甘々な環境に身を置いてる(親頼り)からなのかなあとか凄そうなTwitterしてる人のツイート見て思ったりと一喜一憂。

年末ですね。

 

 

 

 

言葉で伝えても伝わったのは言葉だけ

タイトルはBUMP OF CHICKENの「宇宙飛行士への手紙」という曲の歌詞の一部です。

 

これめちゃくちゃ深いですよね。

 

家庭教師をしてる時が一番思うんですけど、特に理数系科目って本来は具体的な事象についての解明するために計算を行なっているはずなんですが、そのための基礎基本として計算部分のみ(一次関数、方程式とか)を抽出して教えられても抽象的であるがためにイメージができないと理解が進まないと思うのです。

 

逆に数学でいうなら確率とか、図形のあたりの分野は具体的な事象や絵として問題が示されているのでイメージ自体はしやすいと思います。

 

何が言いたいかというと、伝える側は頭の中のイメージごと伝えられた気になりがちで、実は伝わっているのは客観的に見れば言葉だけだよと。

 

だからなるべく図や絵で描いてイメージを言葉を介さずに伝える努力はしています。

 

言葉を介さずというか、言葉を添えるというか。

 

あー、こう語っている今も、むしろ話し言葉より文字としてしか伝わってない可能性もあるわけですよね。

 

記憶≒映像、動画≧画像>言葉≧文字

みたいな。

 

記憶って映像もしくは画像だと思います。

 

「りんご」って言葉を聞いて、無意識に赤くて丸くて硬くてそれなりに大きな物の映像もしくは画像が脳内に思い浮かびません?

 

でもそれって言葉だけで、りんごを見たことがない人、類似する物体を見たことがない人に伝えても言葉しか伝わらないんですよね。

 

だからこそ、特にイメージのつかない数学理科のような抽象的学問は言葉だけにならないようにと気をつけています。

 

そんな風に思ったのは、友人と話す際に、自分は知らない彼(彼女)の向こう側の話を聞くは聞いても、彼がその時を思い出しながら話す際の脳内の映像はこちらに伝わらないので、あぁ正確には理解できていられてないのだろうなぁと思ったことがキッカケです。

 

でも、だからこそ芸術って素晴らしいなとも同時に思いました。

 

言葉を使わず、絵で表現する、造形で表現する(彫刻とか粘土とか)、音で表現するとか。

 

言葉は所詮、人間が生み出した、なんというか効率的な伝達手段?に過ぎないのですよ(多分)。

 

前に一度思ったことがあるのは、攻殻機動隊観てても思ったんですけど、対象人物の記憶をそのまま覗く(攻殻機動隊では記憶の並列化とか言われてた気が)体験ができれば面白いなと(逆に怖くもありますが)。

 

そうすれば、毎回毎回、家庭教師で教える生徒が変わっても同じことを教えることから脱却して、記憶を渡せば残ってる該当記憶映像を見せて解決ですよ。

 

そうすれば人類が繰り返すこれまでの人類の復習としての幼少から大学生あたりまでの教育(学習)内容はすっ飛ばして、その分の20年ほどの時間短縮に繋がりそうですよね(適当)。

 

一人を指導したら、その際に対象者が初めて受けた気持ちから、内容を会得するまでの過程や気持ちの変動まで共有できるとしたら、圧倒的な繰り返しの無駄が省かれるのかも。

 

まぁ脳の成長速度との兼ね合いとか、プライバシーの侵害とか、共有する記憶の範囲設定の有無とか色々問題があるのでしょうけれど。

 

なんてことをたまに考えます。

 

追記すると、大人になってからの後悔を子にも遭わせないために勉強しておきなさいとか言うわけですが、子には言葉としてしか伝わらないので親の思うようにはなかなかならないものですよね。

 

でも、その子も年齢を経て、勉強に限らずあの時の大人の言い分を理解する。

 

そういう言葉として出なく何方を経て得る体験、経験も感情込みで記憶そのまま映像で伝わるならなぁなんて。

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに

「どうやったって無理なんだ 知らない記憶を知ることは

言葉で伝えても 伝わったのは言葉だけ

出来るだけ離れないで いたいと願うのは

出会う前の君に 僕は絶対出会えないから

今もいつか過去になって 取り戻せなくなるから」

と続きます。

f:id:arihuretajinsei:20181118113855p:image

収録されているCOSMONAUTというアルバムはオススメです。

 

 

怖いよ

とある分厚い専門書を軸にして在籍中の授業が組み立てられているっぽい大学学部なんですけど、その専門書を取り扱う授業が何故か必修じゃないことがほとんどだったので後のことは考えずにあえて避けてきたのですが、私の身分として単位になりふり構ってられないことから2年後期にして初めて履修しているんですけど、その専門書の前半部分を理解してる前提で進んでて自習で補うこと必須になって困ってますこんばんは。

 

193文字の長い文章ですね。

 

いやー、あまり笑えない状況で、ホント怖いですわ。

 

ついでに言うと、私の現役時代って最後のゆとり世代でして、理科が化学Ⅰ・Ⅱ、物理Ⅰ・Ⅱという別れ方で、化学基礎、物理基礎ってなかったんですよね。

 

f:id:arihuretajinsei:20181112204526j:image

(持ってましたが一度も使わずに実家にあります)

 

で、尚且つ、中途半端な高校だったのでその理科Ⅱの範囲は希望者のみ補習という形で授業はあったものの、一般生徒は受験に使う部分だけという事で受けてないんですよ。

 

ちなみに数Ⅲも同じ扱いでした。

 

まぁ私は当時から医学部志望を掲げていたので希望者だったんですが、担当教師があまりに個人の好き嫌いで何でもする人で嫌気がさして受けなかったと。

 

そんなこんなでまともに受けてない範囲が今の所属学部の範囲とガッツリ被ってて、これまた尚且つ1年空白の留年期間のブランクで何も分からんという。

 

選択してなかった生物も初学者向け授業などなかったおかげで置いてけぼりですし、下手に留年したせいで質問できる環境など皆無。

 

これからどうすんだ〜。

 

何よりマズイのが、実験の授業ですね。

 

ってこれ語ったことあったっけな?

 

建前としては振り分けられた班員と協力して操作を行うことになってますけど、監視下でキッチリ役割分担で平等に操作を行ったりなんてせず、自由に任せられてるのでその小さなコミュニティ内でリーダー格が現れ、それに近い順にまとめて進めていく形にどうしてもなるんです。

 

同じ学年で一緒に入学し、浪人であることも話さずいて実験班内で浮いて何もできず心苦しさに履修を諦めた過去を持つ私が、留年して過去の実験で出来上がったそれなりの顔見知り空気感と仲良い子は仲良いコミュニティ班内に学年として先輩ぶち込みで上手くいくわけがないんだよなぁと。

 

誰が悪いって?

 

誰も悪くない。私も。教授らも。班員も。

 

なんとかその苦境の中食らいついた留年後の実験授業も、無に帰すであろう悩みとして、一度たりとも2年間の実験で器具の操作を行っていないっていうね。

 

リーダー格とそれに従う周りのメンツが実験を進めてしまうので入る余地がないのですよ。

 

私はせいぜい必要器具を他からかき集めてきて、終われば片すだけ。

 

簡単な器具操作ですら自信を持って行える状態にないので、来たる「しなければならない日」にはどうなってしまうのか。

 

かけない恥が積もりに積もってるのです。

 

今更、誰に簡単な器具操作や前提知識を聞けばいいというのか?

 

もうそのプライドは崩せない。

 

班員内だけでなく、他の班の友人に聞きにいける人達。

学年を超え、先輩に昨年の時の様子を聞ける人達。

マジで羨ましいよ。チートだよ。

 

自習じゃ追い付けねえよ。

 

「目立ちたくない」→「恥はかけない」になり、恥をかかないための策がリスクを負わない逃げだったがために大恥の機運が高まっていたという負のスパイラル。

 

何も考えてない、というか考える余裕がないけど、研究室配属とかなれば実験器具使う日々になるであろうに、私はどうすればいいのか。

 

どんなに初歩的で前提として扱われる事項でも、思い立った時にすんなり聞ける環境は整える必要があるね。

 

勉強でも思うよ。

 

「こんなことも未だによく分からない」ということがバレてはマズイ、「以前教わって分かったふりをしたが実はよく分からなかった」ことがバレてはマズイというような焦った動作してる生徒って結構いますから。

 

それも「恥はかけない」から来るものでしょうが、いずれバレる日が来ますし、大恥の機運を高めるだけなんですよね。

 

 

「申し訳ないけど、ここが分からないから教えてくれない?」の一言が言えるまともなコミュ力のある人間になりたかったよ。

 

と、とりあえず初回の流れで入った実験班のグループラインにて、自分を除く班員が実験に関するレポートを書くにあたっての疑問点などを質問したり答えたりしているのを外で見て、何も分からず答えられないがために役に立たず、ずっと黙っている無愛想で無関心な人にならざるを得ない現状に涙し、思うのでした(震え声)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

またちゃんとした記事として別枠とりますが、ホントに友達は自分を映す鏡だなと思います。

自分がどう見られているのか伝えてくれるわけですから。

その鏡のない私は舐められまいと一人毅然とシュッとした態度で居ざるを得ず、そうしている自覚ももちろんあるため、余計にそのキャラ(殻)を捨てて、近くにいる人(周りは皆大抵友人が出来上がっているので単数で済まず複数が相手になる)に話しかけるなどもう厳しいのです。

つまらないプライドで自滅する。

「恥を上手にかく」という経験はとても重要だと学びました。

 

気分乗ったので2記事目連続更新。

 

ブロガー云々胡散臭い

学校バイトの日々。

 

後期入ってからの時間割りがほぼ1〜5限になってしまい、ブログはもちろん、他のことに使う時間も睡眠に置き換わりつつあってしんどいです。

 

何が一番しんどいかって、授業を聞き流して終えてしまって何してるかよう分からんのですよ。

 

断片的には入ってますが、体系的な流れとして、分かりやすく言えば高校までの教科書のような流れがないのがしんどいですね。

 

ぶっちゃけ、大学入って学んだこと(学習面)は?って聞かれたら何も答えられない、と気付いて焦ってます。

 

そんなこんなでもTwitterとかyoutubeとかは見ちゃってるんですけど、最近よくブロガー?で生きていく的な人見かけるんですよね。

 

好きなことで生きていく(動画版)がyoutuberだとしたら、好きなことで生きていく(文字版)がブロガーみたいな。

 

でも、後者の胡散臭さというか、逆に量産型な感じが見てて気持ち悪いなぁと思ってしまいます。

 

「会社辞めて〜」、「〜ヶ月で〜万PV達成」とか。

 

んで、大抵似たような自撮り写真のアイコン。

 

有名企業とか芸能人のようなインフルエンサーとやらの真似事なのか。

 

そういうのに噛み付いていくスタイルとかそういうのじゃなくて、嫉妬でもなくて(ないつもりで)、側から見て憧れはしないなと。

 

掲げている「自由な生き方で、好きなことを仕事にする」という理念?はどう考えても羨ましいのに、それで生きている人自体には魅力を感じないという。

 

元々それなりにいたのか、実際にその期間と被ったのかは分かりませんが、丁度一年前に本屋巡りの中で偶然手に取った落合陽一(さん)の「これからの世界を作る仲間たちへ」という本にどハマりした辺りからやたら見かける回数が増えた感覚があります。

 

もちろん、意識がそこ(落合さん関連の情報)に向いたことで増えたと錯覚している可能性は否めません。

 

で、その数ヶ月後に情熱大陸でカレー飲みをキッカケに落合さんブームが始まり、本人も書籍連続出版、Twitterで色々な意味で奇妙さが受けて、色々な人が言及と。

 

同時期辺りにミニマリストのしぶ、プロ奢られの人とか知りましたね。

 

(ちなみに後者の人、毎朝早くに起きて会社に行き働くに始まる社会一般の人達の方が凄いみたいな煽りよくしてますが、見知らぬ人に奢られに行く(コミュニケーションを取る)とかその事をTwitterで文字化したり、そういう事する方が自分ならストレスで続かないって感じですかね。)

 

彼らがどの程度なのかとか知らないし、歴の長さも知らないけど、フォロワー数的にはそのブロガー的生き様配信者界隈では影響力強いと思うんですが、その彼らを上位層とすると、真似事した人がわらわらと出てきたという感覚です。

 

まぁ、その上のガチインフルエンサーとしては堀江貴文(さん)、落合陽一(さん)の2強に加えて、箕輪って編集者が関わって本出した彼自身含め、田端慎太郎、前田裕二(さん)とか、西野亮廣、はぁちゅうとかが見え隠れしてる感じでしょうか。(さんを付けていない人は嫌いか、あまり知らない)

 

自撮りアイコンに、インフルエンサーの名言RT、ブルーオーシャン的細分化・差別化した個性推し、同じような界隈仲間間での褒めあい、オフ会して記事にし合い、批判的な意見は気にならなくなったアピール。

 

なんでも良いけど、一番胡散臭いのはやっぱり「〜万PV達成で月収〜くらいです」かな。

 

始めてからのその過程をノウハウとして教えますって書いてなにかのリンク貼ってあったり。

 

ぶっちゃけこのブログ、それで生きていくとまでは思ってはなかったですが、ある程度人に読まれて(自信を持って)、そういう価値観、視点での世の中の捉え方もあるのねとか、この人の思考や生き方は読んでて面白いなと思ってもらえたりしないかなぁと思って始めた節もありまして。

 

逆にそれがネックになって一つの題に対してきっちり詰めた記事にしなきゃ納得できない感じがあって、下書きは山ほど貯まるけど更新はできてないという。

 

人に読まれるためには何はともあれ認知されなきゃいけなくて、自撮りで顔出しした方がいいし、事細かに自分の生い立ちを語った方がいいし、積極的に目標のブロガー仲間などを作りにリプ飛ばした方が良いし、炎上覚悟で過激な記事書いた方がいいし、みたいな積み重ねがこの記事で語った人達で、戦略的な結果なのだと、マネタイズ?な蓄積なのだろうと思いますが、そうしたくはないのですよね。

 

まぁ確かに有益な情報を発信している訳ではないので、そういう意識高いものとして共有されることはないでしょうし、似た境遇の人がたまたま検索してワードが引っかかって読まれて、その人が何かは感じたとしてもそれはそれで終わって広がりが生じることはないのだろうなとも察していますが。

 

まぁまぁまぁ。

 

本記事のように言葉選びも適当でニュアンス山ほど、文章の意味ほぼ無しなものを更新してしまうのは不本意ですが、それも実力でしょう。

 

あれ、結論は…。

ブロガー胡散臭い!